子供が集中している時間を大切にしたい
子供が集中している時間を大切にしたい。
「何か」に夢中になる、熱中する、集中する。
これは人生を通してすごく大切なスキルだと思う。
この「集中する」スキルを伸ばせる幼少期は色んな場所に連れて行き、たくさんの刺激を与えてあげたい。
今すぐ目に見えるスキルではないけど、子供の「将来」という長いスパンで考えた時、きっと役に立つと思う。
それが例え親元を離れてからになるとしても。
目次
新しい公園で新しい刺激をいっぱいもらってきた
昨日近所の先輩パパから教わった公園に行ってきた。
新しい景色、新しい広場、新しい遊具。
私もそうだが、子供にとってもすごく新鮮な体験だ。
どれもこれも新しいから目移りして色々な遊具を行ったり来たり。
それでいい。
いっぱい試して、自分に合うものを探して、見つけたらそこに集中して取り組めればいい。
そして見つけた。
長い木の棒。
「棒かよ!!」
ってツッコミを入れたくなる。
長い滑り台もあれば、吊り橋やロープのジャングルジムなど色々あったのに。
だが、近所の公園にはないぐらい良い感じの太さで3カ所枝分かれしていて熊の手みたいになっている。
どんな刺激があるの?
しばらく振ってみたり、近くの雑草を払ってみたり、水辺で浮いている落ち葉をつついてみたり。
なんだかんだで良い感じ。
- 持ち上げることで木の棒の重みを感じれる
- 雑草を払った際に雑草からの抵抗感を感じれる
- 払ったときの音を感じれる
- 逃げる虫たちの反応を見れる
- 水の抵抗感を感じれる
- 遠くのものをとる道具として活用してみた
- 物から伝わる感覚を試してみた
ざっと思いつくだけでこれぐらいの刺激を木の棒から得ているのだろうか。
もっと他にも当事者しかわからない刺激があったかもしれない。
他にも高い段差からぶら下げていた。
高さを測っていたのかな?
大人は経験していることで視野が狭くなってしまう
木の棒を使ったらどんなことが出来るのか。
ほとんどの大人は子供の頃に色々使って経験しているだろう。
だからこそ、道ばたに落ちている木の枝をわざわざ拾うことはしない。
だが、子供は道ばたに落ちていた1本の木の枝でさえ勉強道具に変えてしまうのだ。
「木の枝」というカテゴリーが無いため、その木の枝が独立した存在なんだろ思う。
そこから振ったり、叩いたり、折ったり色々な事を試して学んでいく。
学び終えると「木の枝」というカテゴリーに入れて終わるかもしれない。
だが、もしかしたら「木の枝」から我々大人が到底思いつかないような奇想天外なアイデアを思いつくかもしれない。
興味があれば、その対象からいくらでも新しい刺激を得ることが出来るのだと思う。
子供恐るべし。
危険が無ければ見守るだけ
下手な干渉で子供の集中力を途切れさせるのはもったいない。
かといって無関心でスマホなんか触っていて怪我でもしたら大変だ。
なので、親のすることはただ見守るのみ。
危険があれば即座に近寄って注意したり、教えてあげれば良いだけ。
子供は自分なりの遊び方で価値観を形成しているため、そこに親の既成概念が加わると独創性が失われてしまう。
一緒に遊びたい気持ちもあるかもしれないが、グッと我慢して子供を見守ろう。
じっと観察していると子供が何に興味があって、何に興味が無いのか自然に分ってくると思う。
また、子供の真剣な表情を見ることは可愛い顔を見るのと同様か、もしくはそれ以上に親心をくすぐる何かがあると思う。
それではこの辺で失礼します。